長期毒性

 

最近嫌な思い出ばかり思い出してしまう。

 

 

いい思い出はすぐなくなってしまうのに、悪い思い出ばかり蓄積していって、これからもどんどん増え続けていくと思うと絶望する。

 

 

最近は落ち込むより怒ることが多くて、思い出しては怒って、を繰り返していたら私の怒りは全て同じことに向いていることに気付いた。

 

 

自分を傷つけた人間がそのことに対して何も思わず忘れて、楽しく過ごしているのが気に入らないのだ。

 

 

最近思い出した嫌な人間の一人が中学三年の時の担任だ。

 

 

当時も大嫌いであったし、今思い返すと教師としてその対応はどうなんだと思うことが多々ある。

 

 

何故私が選んだわけでもないのにその教師に指導されなければならないのか、年長者と年少者?教師と生徒?という関係だからといって何故従わなければならないのか。

 

 

先日山田詠美の本の駄洒落は相手に笑いを強いているというような話を読んで、学校における教師の自称面白い話も笑いを強いられていたんだと思った。

 

 

この教師は面白い話をしているつもりであったようだが、私は笑えるわけがないし、友達ならまだしも嫌いな教師に対して愛想笑いをする必要性もわからなかったため笑わなかった。

 

 

冗談かもしれないが中学の時も高校に上がって構内で出くわした時にも笑った顔を見たことないと言ってきた。

 

 

唐突にクラスで愛想笑いも大切だと話したことがあったが、誰に対して言ってるのか知らないがお前に言われなくても中学生にもなれば場の雰囲気を読んで愛想笑いなんて学んでるわと思った。

 

 

が、あれ?私は場の雰囲気を読んで担任のつまらない話にも笑う必要があった?

 

 

いや、クラスではみんな前を向いていて見えているのはこちらを向いている教師だけ、逆に言えば笑っている生徒や笑っていない生徒を確認しているのは教師のたった一人だ。

 

 

また嫌なことに気づいてしまった。

 

 

"面白い話をしてクラスを楽しませる面白い先生"のはずなのに全員笑っていない時がある、気持ちよくない、みんな笑えよ、ということだったか。

 

 

1,2年で理科を教えるだけの立場だった時には苗字で呼んでいたのに、担任になってからは下の名前で呼ぶようになったのも不快だった。

 

 

中学時代散々嫌な思いをさせてきた人間を好きになるはずがないのに、中学時代あれこれ悪口を言っていた同級生の多くは高校に入るとそんなこと忘れたかのようにその教師に親しみ出した。

 

 

私には理解出来なかった。

 

 

同級生が構内で遭遇したその教師とわいわい話していたことを思い出すと、その教師のことだから"俺は生徒と仲良くて好かれるいい教師"なんて思っていそうでイライラしてくる。

 

 

私みたいに嫌な思いを抱くあまり関わらない歴代生徒たちより、わいわい懐いてくる喉元過ぎれば熱さを忘れるタイプの明るい歴代生徒たちの方がその教師の中で大きく占めていて、"いい教師"と自負できる人生を送っていくのがさぞ楽しいだろう。

 

 

ここに至っての怒りだ。

 

 

嫌なことばかり貯めてしまいどうしようもないのが苦しくなっている一方あいつは!

って。

 

 

私はいつまで嫌な記憶を思い出していくのだろう?

 

 

こんな10年くらい前のことを思い出してしまうんだから、ここ数年の嫌な出来事なんてなかなか薄れてくれないだろう。

 

 

 

 

醜い感情を貯めてしまい、貯まっていくのが辛くて吐き出したいけど結局一人でこうつらつら書くしかなくて、頭で考えるかこう頭の外に出すかの違いしかなくていつもいつも仕方のない自慰行為。

 

 

結局こう書いてみても最近は頭の中で人を罵ってばかり。

 

 

言いたいことが言えない。

 

 

この後に続くのはこんな世の中ではなく、こんな私の気の弱さ。

 

 

 

美人

 

最近友人の友人の友人のすごい人の話を聞いた。

 

 

その他人の話を聞いて、もうなんというか、何とも言えずえっ!としか言えなかった。

 

 

その人は

・大手企業に勤める

・その同じ会社のちょっといいポジションにいる10個上の男(イケメン)と交際3ヶ月程度でスピード婚

・本人曰く今までの人の中で一番いい(歴代彼氏は20人)

・芸能活動をしているわけでもない(?)のにインスタのフォロワー10万人

・ブランドを立ち上げると数時間で1000万の売り上げ

・美人

 

 

何もかも手に入れている。

 

 

それを話してくれた友人は羨ましいと言っていたが、羨ましいなんてもんじゃないだろう。

 

 

私がもし彼女の人生イベントのいずれかを体験したら幸せの絶頂だろうが、彼女にとってそれは絶頂と言えるほどのことではないだろう。

 

 

24年間絶頂の人生だ。

絶頂が普通なのだ。

 

 

誰だ天は二物を与えずと言ったのは。

 

 

ただ思うのは、いい男と結婚できたのも、インスタで女子に支持されるのも彼女が不細工だったら起きていないイベントだろうということだ。

 

 

いい容姿で生まれ、更に彼女に自分を魅せる能力があったからこのような絶頂人生だ。

 

 

自分を魅せる能力も先天的なものか疑わしいため、更に私の心を歪ませる。

 

 

容姿が一番の才能か。

 

 

 

 

いつも容姿にとらわれて文句ばかりを言っているが、そうでないことがあると気付いた。

 

 

綿矢りさの本を読んだときに、何故こんな美人にこのような文章が書けるのかと思った。

 

 

また、私が今まで出会った中で一番美人だと思う同級生はあまり人と群れないタイプで病んでいて、彼女を見る度に影のある美人だ、あんなに美人で何をそう悩み病んでしまうのだろうと思う。

 

 

同じ容姿端麗な女性なのに、どうしてこう湧いてくる感情が違うのかと言ったら、きっと幸せそうかどうかなのだろう。

 

 

後者が幸せでないと言ったら失礼だしそんなこと本人にしかわからないしなんとも言えないが、人生イージーモードで幸せオーラを前面に出している前者が気に食わないのだ。

 

 

"美人に生まれただけで人生イージーモード感"を後者は与えてこないから妬み嫉みはあまり湧かず、むしろ私があなたの容姿だったらもっとハッピーなのにと思ってしまうのだろう。

 

 

"美人であること"、"人生イージーモードであること"どちらも手に入れたかったし羨ましいことだ。

 

 

それをどちらも得ている人を見ると羨ましさが倍増、というよりもむしろたまたま美人に生まれたからって楽していい人生歩んでやがる、なんて醜い感情に変わってしまう。

 

 

こう考えると幸せオーラ全開かそうじゃないかは性格が大きく関わってきそうなのに、また美人なら性格歪むわけないじゃんと考えてしまうのだ。

 

 

 

 

 

こう不満を垂れるばかりなのは私の性格が悪いからだ。

 

 

性格が悪いからいけないのにブスのせいにしているところがあるが、ブスだから性格が歪むし、可愛かったら性格悪くても上手く行くことあるじゃんってまた結局ふりだしに戻る。

 

 

最近性格が悪すぎて苦しくなってきて、私の性格の悪さは後天的だ、と言い訳をしている。

 

 

不平不満もそれに対するこの言い訳も頭の中で繰り広げていて、私しか聞いていないのだが。

 

 

 

期待と不満

 

インターネットを利用していると様々な人の意見を目にするが、その中でもフェミニストや左翼が苦手だ。

 

 

私は保守的であるし、普段あれこれ不満を言っていながらも今の政治のあり方や女性軽視の世の中という大きな規模での不満は抱いていない。

 

 

無知ということが大きいが、まあ別にそれがどうであれ生きていける、とまあこんなところばかりはかなり能天気だ。

 

 

政治のことはわからないから意見できないが、フェミニストの主張に対してはん??と思うことが度々ある。

 

 

女ということで社会において理不尽な扱いを受けていることに対して不満を感じるのは頷けるが、なんでもかんでもこれは不平等だ!私が女だからこんなことを強いられている!男尊女卑のこの世の中!男はクソ!というような過激派フェミニストが怖い。

 

 

全てが平等なんて不可能だ。

 

 

彼女らの主張を見て気付いたのは、不満が生まれるのは期待をしているからということだ。

 

 

彼女らには、女性が虐げらている現状が改善すれば私はもっとこうなのに!というような思いがきっとあるのだろう。

 

 

こういうもんだ、と気楽に考えている私は不満を抱かない。

 

 

一方私はよく身近な人に不満を感じてしまうが、それはその人に期待をしているからということだ。

 

 

期待しないこと、期待しないこと、期待しないこと。

 

 

あの人が失礼な態度を態度を取ってきたと不満に思うのは私が勝手に真摯な態度を期待したから。

 

 

期待したから不満が生まれた。

 

 

期待した私が招いた不満。

 

 

期待した私が悪い。

 

 

あれ、私の期待は過激派フェミニストのそれと同等?

 

 

 

 

なぜ男から身を守るために胸元が開いた服やミニスカートやショーパン等の露出の多い服装を控えなければならないのか、そのような服装の時男が見てくる、男のためにそのような格好をしているのではないとの訴えを何度も見かけたことがある。

 

 

いや、すっげぇ乳だな、めっちゃ露出激しいじゃんって女の私も見ちゃうよと言いたい。

 

 

性的対象でなくても目立つものは目に入ってしまう。

 

 

それを男の視線だけを気にし、全てがそうじゃなかろうにいやらしい目で見られたと騒ぐ、それはただの被害妄想ではなかろうか。

 

 

意識しすぎはよくない。

 

 

適度に能天気でいたい。

 

 

 

一人は寂しい。

 

 

最近抱えている感情を自己完結で済ますしかないのが寂しい。

 

 

本当はこんなところで独り言言っていたくない。

 

 

なんの救いにもならない。

 

 

涙は出てこない、そういう辛さではない。

 

 

心がぽっかりあいているとはこんな感じか。

 

 

寂しいなと思うときに思い浮かべてそして連絡しちゃうような人が欲しかったわけだ。

 

 

いつから寒気の訪れと共に人肌恋しくなり、恋人を求めるタイプの人間になったのだ。

 

 

寂しい。

 

 

恋ではなく愛が欲しい。

 

 

いつまでも子供の私に愛情を注いでくれるママが欲しい。

 

 

そう言って思い浮かべるのは母親ではない、ママという偶像。

 

 

あぁ、少しの愛、優しさ、好意も感じられる、愛に敏感な心が欲しかった。

 

 

寂しいよ。

 

 

一人で寂しいって言ってるの寂しいよ。

 

 

あーーあ。

 

 

 

 

急に自分が幸せでないことに目を向けてしまい死にたい気分に陥った。

 

 

満足できないことばかり。

 

 

逆に自分自身に満足できるところはなんだろう。

 

 

欲しいものを手に入れられない、自分自身が理想からかけ離れている、何も思い通りにいかない。

 

 

欲しいものが手に入らなくたって、私可愛い〜!私天才〜!なんて根拠のない自信でもなんでも誇れることがあれば。

 

 

理想自己からかけ離れていたって、可愛い洋服化粧品、愛しい恋人、楽しい予定なんて手に入ったら気分なんて上がっちゃう、単純だから。

 

 

そもそも理想的な自分であれば手に入れたいものも手に入れやすいのだろう、なんて。

 

 

 

 

先月友人と疎遠になる出来事があり、珍しく入っていた約束は三連発ドタキャン、と悪いことが立て続けに起こる。

 

 

気が参る。

 

 

そしてここ最近肩甲骨が凝るし肩が重い。

 

 

この不運といい何か乗ってるんじゃないかという思いに至る。

 

 

日に日に重くなる肩、おいおい私の肩で宴でも開いてるのか?なんて一人でふざけて考えてみたけど、なーんも面白くねえよ。

 

 

自信家

 

嫌いなタイプの人間の言動に触れてしまい不快に思うとそれを何度か思い出してしまう。

 

 

腐ったものを食べて後で吐き気や下痢が襲ってくる感覚だ。

 

 

やはり自信家が大嫌いだ。

 

 

自分は容姿が優れているだとか、勉強が出来るだとか、仕事が出来るだとか。

 

 

自信を持つことはいいとして、それをひけらかし、またその自信自信自信で膨れ上がった自尊心、大きな態度。

 

 

あぁ迷惑!

 

 

自分が色々努力をし、何かを成し遂げて持つ自信はいいだろう。

 

 

しかし見た目がいいだの地頭がいいだの、何故そんな偶然手に入れたものについてそんなに自慢気になれるのか。

 

 

少なくともおまえの辞書に謙虚という言葉はないようだから頭悪いよ。

実るほど頭を垂れる稲穂かな。

 

 

なーんて程度の低い蔑みで吐き気を催した自分の背中を自分でさすってやるようなことをしたって元凶は出ていかないから意味がない。

 

 

しかしこんなこと本人に言える強さを持ち合わせていないし、誰かに言おうものならただの僻みだと思われるだろうから自分の内に残している。

 

 

前もこんなこと書いた気もする。

 

 

 

気持ちよくならない。

 

 

根に持つタイプ

 

やっぱり憎しみは消えない。

 

 

私は嫌いな奴を好きになることはなくずっと嫌いだし、そういう根に持つところ、頑ななところはいつも同じだ。

 

 

早く死んでくれと思う人間がまだ死んでいないようだから私は不幸せ、と思うことが増えた今日この頃だ。

 

 

この前ヘラヘラ話をして、憎んでいる人間なのになぜこのように話しているのだろうと後から思った。

 

 

 

 

喧嘩をした時、喧嘩直後は勿論平和な会話はできないが、仲直りしたりまた時間が解決したりしてまた前のように関われるときが来る。

 

 

 

普段は普通に関わる。

怒っているのは現在ではなく過去に喧嘩した時だから。

 

 

しかし怒っていなくても相手に対するモヤモヤは完全に消えない。

 

 

そんな感じみたいなもん、多分。

 

 

でもそのモヤモヤが無視できるほど軽いものではないのだ。

 

 

憎んだって仕方ないことはわかっている。

 

 

どうしようもなくて、でも憎くて痛い目に遭ってくれなきゃ気が済まなくて、でもできなくて。

だから死ねにたどり着くのだろう。

 

 

可哀想に、中学生かよ。

 

 

 

 

しかしこの件私が悪かったとどうしても思えない。

 

 

ただの喧嘩のような、お互いよくなかったね、ではなくクズにクソみたいな扱いを受けたと感じている。

 

 

まあ人間関係のことだからまったく悪くないとは言わないが。

 

 

しかし向こうは悪いことをしたと思っていないようだ、あぁ憎しみ。

 

 

向こうが悪いことをしたと思っているから、自分は被害者だと思っているから、こう憎悪が増しているのだろう。

 

 

早く囚われるのをやめたい。

 

 

9月から気分が全然落ちないのに、ふと思い出すことはこんなことだ。

 

 

気分が落ちないからといって私は毎日寂しさを感じず楽しく過ごすようになったというわけではないのだな。

 

 

もっとホンモノのハッピーになりたい!

 

 

 

 

今私が小学生の時、母親が十字路で一停を無視してきた車と出会い頭で衝突する事故にあったことを思い出した。

 

 

標識無視したのは向こうだし、母親は発進したばかりで大してスピードも出てない状況で完全に向こうが悪いのに、この事故で折れ曲がった標識の修理費を一部払わされた。

 

 

被害者なのに。

 

 

このようにクソ事例はいくつもあるんだなと思い出した出来事だったが、特になんの関係もないな。