満たされない

 

 

今日は満たされないことが辛いと感じる一日となった。

 

 

仕事の日に疲れて空き時間を自分の時間に使えないことより辛かった。

 

 

三連休となり、やることは二日で済ませたため、最終日は出掛けようと思った。

 

 

三連休二日目の夜から考えても近場ではいい所が全然思い当たらず、結局最終日の午後とりあえず気休めに田舎のショッピングモール、イオンに向かった。

 

 

鞄、サンダル、ピアスと欲しいもの自体はあったのだが、良いものには出会えず、平日にも関わらずお盆休みや夏休みのために賑わったイオンを収穫なしであとにした。

 

 

帰宅し夕食時になったが夕食を考える気にも、夕食を作る気にも、夕食を食べる気にもならず、とりあえず駅周辺までぶらつきに行くことにした。

 

 

徘徊癖があった私は以前はそれで気を紛らわせられたのだが、田舎の駅に楽しいものなどなく、駅ビルも早々閉まり、気を紛らわすものなど何もなかった。

 

 

本当は出掛ける前からわかっていた。

 

 

今日一日何も満たされないことが辛くなって涙が出そうになった。

 

 

夕方連絡を取っていたが、邪魔をしてはならないと会うのを我慢した相手に再度連絡をして、すぐに連絡が返ってきたら会いに行こうと思ったが、すぐには返ってこなかった。

 

 

コンビニでつまみと酒を買って帰り、その頃連絡が返ってきた相手に明るく返事が出来なかった。

 

 

昼間自分の思い通りに過ごせなかったこと、会いたかったが邪魔になると思って我慢したこと、外出してみたがやはり何もなかったこと、勇気を出して再度連絡してみたが結局駄目だったこと、全てが辛くなってしまった。

 

 

全て自分のせいなのに、満たされないことを吐き出してしまい、相手から思い通りでない返事が返ってきて、もう駄目だと思いこちらからごめんおやすみと切るLINEを送った。

 

 

すると相手から謝るLINEが返ってきて、また気を遣わせてしまったと、申し訳なさ、情けなさで涙が出てしまった。

 

 

何も上手くやれなかった。

 

 

一人で自分を満たすことも、はじめから素直に自分の思っていることを伝えることも、相手を気遣うことも、何もできなかった。

 

 

久しぶりに泣いた。

 

 

ここ数ヶ月は一緒にいてくれる人がいるから寂しさを感じず満たされて、泣くことがなかったのだろう。

 

 

一人でどうにかしようとするとまたこうだ。

 

 

この人がいつか去っていったらどうするのだろう。

 

 

大人になれない。

 

 

自分で自分を満たしたいし、人に迷惑などかけたくない。

 

 

しかし一人で生きていくのに田舎は向かないと実感している。

 

 

どうしたらよいのか。

 

 

早く死にたい。

 

 

 

最近は気分が沈んだり平気だったり波が激しい。

 

 

気付いたのは、やはり自分は駄目だと何かしらで実感することがあると沈みがちということだ。

 

 

同期と馴染めていない、全然話せないと実感すること。

 

 

仕事を上手くこなせない、向いていないと実感すること。

 

 

自分の中でなんでこんなこともできないんだろうと自己嫌悪に陥るだけでなく、周りの人が見えることでみんなできているのに、と比較してしまい更に落ち込んでしまう。

 

 

資格は取得できたが、薬剤師になれたとは到底言えない。

 

 

人として駄目なのだから当然薬剤師としても駄目なのだろう。

 

 

慣れる日が来るとも思えない、人に慣れて話せるようになるのもかなりスローだから。

 

 

 

 

理想自己と現実自己の乖離

数年前この言葉を聞いてから幾度となく私の中でこれが議題となる。

 

 

理想自己に現実自己を重ねられないのなら、現実自己に理想自己を重ねればよいのだろうか。

 

 

人はそれを甘えと言うのだと思うのだが。

 

 

人間関係の構築ができない

 

人間関係を上手く築けないことを改めて感じ、辛くなった。

 

 

しばらくこのことからは目を背けていて気にしていなかったが、やはり大きな問題だった。

 

 

私は人に恵まれたからなんとかやれてこれただけで、本当に生きている価値のない人間だ。

 

 

早く死ねばいいのに、本当のクズだから死ぬ選択もできずここまで生きてしまっている。

 

 

卒業式では、卒業する寂しさとは違う寂しさを感じた。

 

 

卒業式終わって早々に帰るのは寂しいだろうと思い、帰れないことになることにしてまで二次会まで参加した。

 

 

卒業式の夜ネカフェで過ごすなんて人間があるだろうか。

 

 

とっとと帰ればよかった。

しかし二次会途中で帰りますって言い出す勇気もなかった。

 

 

大学生活では部活や研究室というコミュニティに属したが、どちらでも馴染めなかった。

 

 

どちらもいい人ばかりで人に恵まれたと感じているのは間違いないが、いい人だから私と関わってくれていると感じることが辛かった。

 

 

属してはいたが、幽霊部員でもなかったが、私は必要がないと感じることが辛かった。

 

 

高校で部活に入らず後悔したため部活に入ったが、結局上手くやれなかったのだから同じだ。

 

 

何故私はこうなのだろう、いつからこうなのだろう。

 

 

大人しくて目立つことのない子はいるが、そういう位置付けとはまた違う。

 

 

気の利いたことも言えないできない、本当に価値がない。

 

 

自分から話しかけることができるのはごく一部しかいなかった。

 

 

優しくてよくできた周りの人と何がどう違ってこのような差が生まれてしまうのだろう。

 

 

卒業式後このようなことで泣くとは思いもしなかった。

 

 

ここで一番強い感情が、こんな私と関わってくれた人たちありがとう、感謝、ではなく、なんで私はこうなんだ、生きてる価値ない死にたい、であるところがまたドクズ感ありありで辛いところだ。

 

 

 

コンプレックス

 

コンプレックスはいつも生きる邪魔をしてくる。

 

 

おおまかに言うと、自分の容姿の悪さだとか、勉強の出来なさだとか、勉強だけではない頭の悪さだとか、コミュニケーション能力のなさだとか。

 

 

自分の劣っている部分を確認する度に辛くなる。

生きづらい。

 

 

 

 

日常生活では他人のコンプレックスに触れることはないが、インターネットではよく人のコンプレックスに対する嘆きを目にする。

 

 

ある日目にしたのは、肩幅が広いことがコンプレックスだということだった。

 

 

肩幅がガンダム、華奢な女になりたい、と。

 

 

その投稿を見てから、風呂で裸になった自分の肩幅を気にして見てみると、なんと私の肩幅はガンダムと言えるそれだった。

 

 

今まで自分の肩幅が広いという自覚はあったが、別に全然気にならなく、なで肩じゃなくてよかった、なんて怒り肩の自分の肩はいい肩だと思っていた。

 

 

しかし改めて確認してみると私の肩はガンダム、女子が疎ましく思うガンダム肩、コンプレックスに思うべき肩であることにその時初めて気付いた。

 

 

気付いたその時は気を若干落としたものの、その日以来自分の肩がコンプレックスになったかというとそれは違う。

以前同様あまり気にしていない。

 

 

この時、コンプレックスかどうかは、本当に劣っているかどうかではなく、自分が意識するかどうかなのかだと気付いた。

 

 

自分の肩幅をコンプレックスに思わないように、自分の劣っていることに対するあらゆるコンプレックスをあまり意識しすぎずにいられればいいのに。

 

 

自分が劣っていることは仕方ないと開き直るのではなく、無意味に意識して気分を落とすのをやめたい。

 

 

 

理解

 

かつて理解できなかったことが、時を経て理解できるようになる、ということがあるのに気付いた。

 

 

おそらくあれは小学4年生くらいの時だったであろう、平井堅がイベントに登場して歌ったというワイドショーの一話題があった。

 

 

そこには最前列で涙を流している女性の姿があった。

 

 

それを見た私はなんで泣いているんだ、歌を聴いて泣く意味がわからない、と冷めた目で見ていた。

 

 

しかし昨年、私はKinKi Kidsの全部抱きしめてを聴いて泣いた。

初めて歌で泣いた。

 

 

平井堅で泣いていた女性がどういう感情になって泣いていたのかはわからないが、歌詞や自分の体験など相まって涙が出てしまうことがあるのをここで初めて知った。

 

 

この時、自分が理解できないからといって批判的になるのは間違っているし、自分の狭い主観だけで判断して批判するのは浅はかで恥ずかしいことだとわかった。

十数年ごしに。

 

 

明らかにおかしなことには批判的にもなるが、いつでももっと余裕を持っていたい。

 

 

 

 

また先日久しぶりにテレビで西野カナのトリセツを聴いた。

 

 

以前はなんだこの我が儘な女は、偉そうに、とこの曲が嫌いだった。

 

 

が、先日聴いた時はどうだろう、なんと共感してしまったではないか。

 

 

私はいつからか恋い焦がれる系の女になったのか。

 

 

なんならかつて笑っていた会いたくて会いたくて震えるという歌詞も今じゃ馬鹿にできない。

 

 

私は今西野カナの曲が理解できるJKレベルに達したようだ。

 

 

馬鹿にしていたようで、逆に馬鹿にされるレベルだったようだ。

 

 

恥ずかしい。

 

 

 

 

音楽関連のことばかりで思い起こしたが、あらゆることで言える。

 

 

後から経験することで理解できることがある、なんでもかんでも否定的になるべきではない。

 

 

こうわかったはずなのに、感情が絡むとなると負、そして沸き立つ攻撃性。

 

 

結局駄目だ。

わかった気になっただけ、いつも。

 

 

比較

 

友人にインスタグラムの他人二人の投稿を見せられ、もやもやしたことがある。

 

 

一人は大学の男の同級生、もう一人は友人の中学の女の同級生だった。

 

 

男の方に関しては、自分のことは棚に上げて男友達の顔をディスるなど自分に自信のあるタイプでよく友人から彼の悪口を聞いていた。

 

 

私は直接の関わりはないが、男友達の容姿を悪く言った件から嫌悪感を抱いていた。

 

 

そんな中友人が見せてきた彼の投稿は、彼と彼の友達が何かを披露する動画であった。

 

 

友人が"本当自分に自信あるよね、かっこいいと思って上げてそうだよね"なんて言っていて、まあそうだねぇなんて聞いていた。

 

 

そう流すくらいインパクトのない動画だった。

 

 

 

 

その次に見せてきた女の方の投稿は、自分の結婚式の投稿だった。

 

 

通常の投稿には長々としたコメントつき、デキ婚で風当たりも強いけど〜、式もしないつもりだったけど〜、なんて流れからの感謝みたいなコメントらしい。

 

 

そして大量のストーリー、撮った写真全部載せたのかというほどの多さ、同じような写真、そして本人によるツッコミのようなコメントの文字つき。

 

 

そして式中の写真をちゃんとした写真家に頼んだらしくその人のアカウントにも載る写真。

 

 

それに対し、一緒に見ていた他の友人は"いいね〜、美人だね〜"なんてコメント。

 

 

この違いにもやもやした。

 

 

どちらかというと私は後者の大量の写真にドン引きした。

 

 

結婚式の写真全てはインスタに上げるために撮ったのか、むしろインスタに上げるための写真を撮るために式を挙げたのか、元々式を挙げるつもりなかったのに?、写真家(?)にも頼んで?

なんて思ってしまった。

 

 

人生における大イベントである結婚式の写真を上げるのはわかるが、挙げるつもりはなかったとネガティブなことを言っておきながら大量UPに困惑したし、それに加えポジティブな友人の感想、理解できなかった。

 

 

前者と後者何が違うんだと。

 

 

容姿がいいとは言えない男の技を披露する動画一件

 

美人の結婚式の大量の写真

 

 

自分の写真をSNSで上げることなどできない私からしたらどちらも同じようなもんだ。

 

 

それなのに友人の評価が違うのは?

 

 

男はいわば日常の投稿、女は結婚式という晴れ舞台だから?

男は不細工で女は美人だから?

 

 

 

 

 

また、結婚式の写真大量UPを見て同時に湧いたのは、主人公感が半端ないなという感想だ。

 

 

まあ結婚式は主役になるのは当然なのだが、こう大量UP、長文コメントが出来る今を築き上げたこれまでの人生、主人公感が半端ないな、と。

 

 

それを感じたとき、私は脇役だと思った。

 

 

自分の人生においては誰もが自分が主役なはずなのに。

 

 

やはり他人と比べてしまうから、自分だけの人生を自分が歩んでいるのではなく、この世界を主要キャラではなくモブキャラでプレイしている気になってしまうのだろう。

 

 

よく自分を客観的に見ても思う、何が楽しくて生きているんだろうと。

 

 

でもこれはモブキャラだからということではないのだ。

 

 

そこまではわかるのに。

 

 

 

思い出す

 

思い入れのあるものがある。

 

 

物でも人でも出来事でも、まあ色々ある。

 

 

思い入れがあるからよく思い出して、考えてしまう。

 

 

しかしもう手に入らないから、何度も考えてしまうのは馬鹿らしいから、考えるのをやめようって言い聞かせる。

 

 

あれは大していいもんじゃないとか、あんなところはよくないでしょって駄目なところを憎むようにして忘れようとした。

 

 

でも全然効果がなくて。

 

 

そこで嫌なところを憎んでも、そのもの自体は憎めないことに気付いて絶望した。

 

 

そもそもいい思いを抱いていようが悪い思いを抱いていようが、いつまでも囚われているのは変わりない。

 

 

 

 

よく物語である、ある人物の本当の思いを知らずに勘違いして生きてきたとか、知らぬまま死んでしまったとか、本当はこう思っているのに伝わらない切なさというのが堪らない。

 

 

フィクションなのに、どうしようもない切なさに苦しむ。

 

 

そんな物語があると、私ときたら現実世界にも、と考えてしまっているのだろう。

 

 

あんなことあったなと何か思い出すとき、こんなこと思い出すのは私くらいなのかなと考える。

 

 

その思い出に誰がいようと、思い出として持っているのは私なのだから他人など関係ないはずだ。

 

 

でも、あの人もこうやって思い出すことあるのかななんて考えて、いやそんなことないよなと自己解決して。

 

 

それでも、他人が思い出していることなんて知る由もないのだから、知らないだけでどこかでふと思い出しているのではという空想をして、なんだか切ないなと思ってしまうのだ。

 

 

どう思おうが勝手だけれど、全て私の頭の中でしか起こっていない。

 

 

物語は、思いが届かないから切なくて、それが苦しいと思ったけれども、本当は登場人物が想定しているような最悪な状態ではないということが救いになっている。

 

 

そんな救いを現実世界で私は求めてしまっているからまた空想にふけるのだろう。

 

 

そんなの物語の中だけの話なのに。

 

 

都合が良い頭をしていると言うのか、なんて言うのか。

 

 

 

 

なんていう8月の終わりの下書き。

 

 

今読み返しても同じように思うし、もう3ヶ月以上経っているのにその同じことを辞められていないだなんてね。