友達が卒業式の袴を着て前撮りをしたという話を聞いた。
こんな感じで撮っただとか、卒業式当日の髪型はこうするだとか、それを両親とあれこれ話しただとか。
黙って聞いていたけれど、正直前撮りとかそこまでこだわってやることか?と思ってしまった。
今回のことで、この6年間色々なことへの認識の違いを感じることが多かったことを反芻した。
この大学金持ちが多い、特に彼女は甘やかされて育っているように感じる。
このようなことが私に新たなコンプレックスを生んだ。
私はあまり人の学歴を気にしないが、友人は気にするようで、結婚相手は自分と同レベルか自分以上の学歴でなければ嫌だそうだ。
また、いずれは年収1000万を超えなければ嫌なようだ。
きっとこれは育ちにより生まれた彼女の中の常識だ。
彼女らの両親は大卒なのは言うまでもなく、話すとすればどこの良い大学を出ているのかということだろう。
それを感じたとき、今までなんとも思っていなかった自分の両親の学歴のことを少し気にしてしまった。
私が人の学歴を気にしないのは、親が中卒と高卒だからだろうか。
しかし何かと認識の違いがある度に、さすが、下流家庭のうちとは違いますわ〜なんて捻くれて考えるようになっていた。
大学出させてもらえるだけ十分恵まれているはずだが。
元々裕福でないことをよく思っていなかったのは確かだが、上流家庭育ちの人間ばかりと関わっていたらいつしか自分の育ちに劣等感を感じるようになってしまっていた。
いつしか心のどこかで学歴を気にする人間になってしまっていた。
あえて言うことではないし隠しているわけではないが、父親が中卒であることを私はすんなり言えないだろう。
また、年収1000万が普通だという認識の彼女は、きっと年収がそれくらいの男と結婚して、一生金に困ることはないのだろう。
子供は幼稚園もしくは小学校から私立を考える、大学は早慶上智や医学部なんかに入れたいと考える。
大してバイトをしていないのによく遊ぶ、海外旅行に行く、買ったiPhoneケースはマイケルコース。
私は子供には習い事はさせたいものの、学校なんてできる限り安く済むならその方がいい、早慶上智に行く頭があるなら国公立に行けばいいと思ってしまう。
遊んでいる彼女を見てバイトをしているのはお小遣い稼ぎのようなもので生活費は全て親持ちなのを察したし、iPhoneケースなんて携帯変えたら使えなくなる消耗品、よくそこに金を使えたものだと思ってしまう。
あぁ醜い僻み。
しかし当然ではないだろうか。
金持ちの彼女らは自分の感覚が普通だと信じて疑わず、恵まれた境遇を普通だと思って生きている。
普通だと信じて疑わないところが、私の捻くれを加速させているように思う。
憎んだって仕方ないことはわかっている、しかしそのような生まれながらの金持ちばかりを見て生まれる感情は憎しみに近い。
高校卒業まで田舎で育ってきて、近くにいい学校がなく良い教育を受けられないことや、受験のために参考書が欲しいが高いと感じることなど多かった。
勉強に関して、所得の低い家庭は教育が疎かになるのが問題で、そのような家庭の子供に無料で勉強を教えるボランティアを何度かテレビで見たことがある。
自分の境遇により勉強ができないなんて理不尽だ、悔しいだろう、そのような子供が減るように私も自分自身が安定したら何か支援をしたいと考えたことがある。
しかしふと違うところに目を向けると、自分より恵まれた人間が、自分の金を自分のためだけに使っているのが見えてしまう。
すると、なぜ私より金を持つ人間が好き勝手豪遊しているのに私は節約しながら人助けを?という気になってしまうのだ。
私はとても醜い人間だ。
今年の夏スーパーボランティアと称された男性が話題になった。
彼を見て胸が痛んだ。
本当に私は醜い人間だと、どうしたら彼のように自分のことより人助けといった真の慈善活動ができるのだろう、そのような精神に至れるのだろうと。
私はきっと金に執着している。
今金を稼いであれがしたいこれがしたいが多すぎるのだ。
社会人になり安定したとき、また改めて考えたい。
結論が早く欲しい私には申し訳ないがこの問題は延期だ。
ただ今結論を出すのが無理だと判断した自分自身に言えるのは、口に出さなければ思いが伝わらないのと同様、思っていても行動しなければ意味がないということを忘れるなということだ。
自分だけが楽しみたいと思って豪遊する人間になるか、困っている人を助けたいと思いながら行動に移さず結局豪遊する人間になるか、助けたいからそうする、自分の生活はそこそこにという人間になるかだ。
豪遊は言い過ぎでそんなに稼げないが。